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更新日:2019年6月17日
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先日、娘と買い物に出掛けた時のことです。その日は、立体駐車場に車を止めるのにもかなり時間がかかるほど混んでいました。
買い物を終え、車に向かうためにエレベーターを待っていました。そして、やっと乗ることができましたが、すぐ満員になりました。そんな中、エレベーターはなぜか2階で止まったのです。「2階までなら歩いていけばいいのに…」という思いになったのですが、誰も降りません。不思議に思ってふと外を見ると、女性が立っていました。いっぱいで乗れるはずがありません。よく見ると女性はカバンにマタニティーマークを付けていました。「そうか。歩くのはきついんだろうな。誰か降りてあげればいいのに」と思っていました。すると、娘が「降りよう」とわたしの手を引っ張り、前の人をかき分けながら降りたのです。そして、女性に「どうぞ乗ってください」と声を掛けると、女性は笑顔で「ありがとう」と言い、乗りました。
娘と階段を上りながら、なぜエレベーターを降りようと思ったのか、尋ねました。娘は「お父さん、マタニティーマークに気付いた?あの人、一人だけど一人じゃないんだよね」と言いました。そして、「わたし、小学生の時に妊婦擬似体験をしたことがあるんだ。その時、靴下を履くことさえ大変だったし、階段を上り下りするのもとても怖かったのを覚えているわ。あの時から、わたしに何かできることがあれば、とずっと思っていて…。今日みたいに混んでいる日は、1階から乗らないと乗れないでしょう。わたしたちが歩けば、あの人が乗れる、それなら降りればいいって思ったの」と続けたのです。
わたしの知らない間にいろんなことを学んで成長している娘を頼もしく感じました。そして、きついんだろうなと気付いていたのに、「誰かが…」と思って行動できなかった自分が恥ずかしくなりました。
さまざまな体験をすることは、相手の思いを自分のこととして感じる想像力を育みます。そして、「誰かが…」の中には「わたしが」も含まれていると気付くことが、想像力を生かすことにつながっていくのです。