ホーム > くらし・手続き > 人権・同和問題 > 人権教育 > 人権・同和教育シリーズ > No.489「差別があるから…」
更新日:2019年8月15日
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わたしは、企業で社員への人権教育を担当する部署で働いています。8月の「差別をなくす運動月間」に合わせ、社内で研修会を開催しました。講師には、現在もなお存在する部落差別の話をしてもらいました。
研修会後に、同期の社員が近づいてきて「知らない人があえて知る必要はあるのだろうか」と言ったのです。わたしは、研修会の中で、彼は一体何を学んだのだと怒りを感じましたが、場を改めてきちんと話をする機会を持つことを約束して、彼と別れました。
後日、夕食を食べながら彼と話ができました。わたしは今までの学びから、差別をなくすためには多くの人がきちんと知ることが必要だと話すのですが、彼は納得しません。わたしは少し感情的になり「差別があるのに何もしないのは、受けている人に我慢しなさいと言うのと同じことだ。もし、自分の大切な人だったとしても、そのままにしておくのか」と言いました。
その後、しばらくの間、沈黙が続きました。そして、悔しさで涙ぐむわたしを見て彼は「自分の親は部落差別を受けていた。そして自分もいつ差別にあうか分からない苦しみをずっと抱えている」と話してくれたのです。
わたしは、彼の思いに気付いていませんでした。差別があることを誰よりも知っている、受ける苦しみを誰よりも知っている彼だからこそ、みんなが中途半端に知ってしまうことに、怖さを感じていたのだと思うと、胸が締め付けられました。そして、彼に苦しみを抱えさせてしまう差別があることを、本当に悔しく感じたのです。
彼は「何もしなくて差別がなくなるとは思っていない。なくしたいという気持ちは同じだよ」と話しました。差別をなくしていくために、自分がこれからどのように取り組んでいけばよいのかを、改めて本気で問い直すことができたのです。
差別は「ない」のではなく「見えない」のです。多くの苦しみを生み出す差別をなくすためには、まずは差別の現実を「知る」こと、そして確かな認識につながる「学び」が欠かせないのです。