更新日:2020年12月15日
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わたしは仕事上、市役所に行く機会があります。訪れたときは、正面の人権啓発大型ポスターを必ず立ち止まって見るようにしています。意識してそうするのは、カズ(仮名)との約束があるからです。
昨年の人権週間のころ、部落差別についての啓発チラシが職場に配られました。いまだに差別があること、差別された人が新たな差別を恐れて声を上げられないことなどが書いてありました。「もしも、あなたやあなたの家族が差別を受けたら…」とメッセージがあり、想像するだけで胸が締め付けられ、差別は許せないと感じました。そして、家族が差別されないように、自分なら出身を隠す、住んでいる場所から離れるかもしれない…と思ったのです。
休憩中に、仲の良かった同僚のカズにその思いを話しました。カズは「『差別される側の人が行動したり、努力したりすれば、何かが変わるのではないか…』という考え方では、差別はなくならない」と言ったのです。
いつもと違うカズの様子に戸惑っていると、カズは「出身を隠したい気持ちはよく分かる…でも、自分を育んでくれた故郷を隠したくない。それに、隠しても離れても、勝手に調べたり、言ったりする人もいる…」と続けました。カズが自分のとても大切なことを伝えているのが分かりました。そして、わたしの考え方がカズを傷つけたことに気付いたのです。
大切なのは普通に出身を語れる、どこで生まれても、どこに住んでいても関係ない、差別されない社会であること…する人がいるから差別はある、する人が変われば差別はなくしていける、そしてそれは「わたし」だということ…カズと話をする中で、そんな当たり前のことに改めて向き合えたのです。
わたしは、あのとき、部落差別について学習を重ねる約束をカズとしました。それ以来、意識して人権について学ぶ機会を大切にしているのです。差別する側の人から、差別をなくす側の人になるために…。
差別の解消は、差別する側の問題です。一人ひとりが解消に向けて何ができるかを考えていくことが大切です。