更新日:2023年2月1日

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No.530「もしかしたら自分も…」

父とサッカーの試合を観戦していたときのことです。大好きなチームだったので、次第に応援にも熱が入りましたが、チームは負けてしまったのです。
「惜しかったな」と話す父に対し、悔しかったわたしは「あの選手のミスがなければ負けなかったのに。きっとみんなもそう思っているよ」と言い、インターネットを見ました。「ほら、やっぱり」。そこにはわたしと同じようにミスを指摘する投稿がたくさんあり、中には選手の人格を否定するような書き込みもあったのです。それを見た父が「どうしてこんなことが書けるんだろう」と言うので「あんなミスをするからだよ。いろいろ書かれても仕方ないよ」と答えました。
すると父は「試合内容について、自由に意見交換することはあってもいいと思うし、それがチームや選手の今後の成長につながることもあるだろう。でも、その人自身を否定することは誹謗中傷だ。同じことを自分がされたらどう思うか考えても、どんなにひどいことか分かるはずだ」と言い、「以前、それが原因で亡くなった人のニュースがあっただろ?誹謗中傷は人の命を奪うことにつながる。絶対に許せない」と続けました。
もし自分がされたら…と考えると不安と恐怖を感じました。それなのに、わたしは「あんなミスをするからだよ。いろいろ書かれても仕方ないよ」と考えていたのです。そして、このままいくと、もしかしたら自分もその考えを投稿するようになっていたのではないかと思い、さらに怖くなったのです。
後日、あの選手の談話を見ました。そこで「一つのプレーでさまざまなことを言われたとき、試合に出るのが怖くなりました。でもそんなときに支えてくれたのが応援してくれるみなさんの温かい言葉でした」と話していました。 何気ない言葉で一人を追い込んだり、励ましたりすることができるのだと感じ、わたしは人を支える側になりたいと改めて思いました。

ズータン

誹謗中傷は絶対に許されないことです。「姿が見えなくても、画面の向こうには相手がいる」ことを常に想像することが大切です。


※昨年、侮辱罪が改正され、法定刑が引き上げられました。
 

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教育委員会事務局教育部人権・同和教育課 

電話番号:(097)537-5651

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