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更新日:2024年8月20日
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「城は町の東北の海の方にあり。頗る大なり。天守あり。
城の入口三所あり。町も頗るひろし。万の売り物備れり。」
貝原益軒『豊国紀行』から
大分市荷揚町に所在する「府内城」(荷揚城)は、府内藩主の居館および武家屋敷により構成された、近世城郭の特徴を色濃く残す城です。大分川と住吉川に挟まれ、かつて海辺に面した府内城は、白土の塀と、まるで水上に浮かぶその姿から、「白雉(はくち)城」とも呼ばれています。
府内城は、大友氏が国を去った後、豊後を治めていた早川氏に続き、府内に入った福原直高により、築城が行われ、その後竹中重利により、現在の府内城の形が出来ました。府内城下町も同じ時期に形成され、今の大分市街地のおおよその形は、この頃に作られました。
城郭としての特徴は、北方を海に、東方に大分川河口が面した、高低差が殆ど無い平坦な城にあります。また、大きく三つの郭と三重の堀からなっていました。明治末頃、三の丸外側と二の丸内側の堀は埋め立てられ、現在では、二の丸と三の丸を区切る堀が残っています。かつては、四層の天守を持ち、23の櫓と5つの門、3箇所の廊下橋が築かれていましたが、戦災などにより失われてしましました。現存する「宗門櫓(しゅうもんやぐら)」と「人質櫓(ひとじちやぐら)」は、県指定文化財となっており、江戸時代の意匠を今に伝える貴重な文化財といえます。また、堀や塀、石垣も県指定となっており、それ以外の部分も市指定の史跡として保護され、大分市民の憩いの場となっています。
府内城の築城は、大きく二つの築城段階があり、福原直高と竹中重利の段階に分かれます。福原直高は、慶長4年(1599)に府内城の本丸、二の丸(三重櫓)、三の丸(家臣屋敷)まで造っていました。また、天守は入城できましたが、完成していなかったと思われます。やがて、慶長六年(1601)に府内に入った竹中重利は、府内城の修増築と城下町の建設を始めます。防備を固めるため、石垣を築いたほか、天守、櫓、武家屋敷が、慶長七年(1602)に完成します。その後、城下町建設に取り掛かり、慶長13年(1608)に、商船の出入りの為に港「京泊(きょうどまり)」を設けるなどを行い、城下町を整備しました。
慶長二年(1597)に福原直高は豊臣秀吉の命により、「要害」としての城を築くため、府内を見て廻り、「荷落(におろし)」と呼ばれていた河畔を築城地に定め、城造りに懸かります。
直高は、国元にいるときは築城工事を監督し、木材を領内の大分郡だけでなく、土佐国にまで求めたり、また他国の商船に領内(高崎など)の石材を運ばせていました。
朝鮮出兵などで、築城の中断がありましたが、約二年の歳月を経て、慶長四年(1599)に本丸に続き、二の丸と三の丸が完成しました。直高は「荷落」の地名を嫌い、「荷揚(にあげ)城」と名づけました。また、新年の祝賀をお城で執り行ったと言われています。
慶長七年(1602)から、竹中重利は、家康の許可を得て、四層の天守と諸櫓・門・武家屋敷・北西砦(山里丸)を造りました。その際、石垣の築造に、加藤清正の石工を、大阪や伏見から大工や瓦師を招くなど、当時の城造りの先端技術を導入しました。
城下町は、南北九町、東西十町の碁盤の目状に区画され、町の北西側には京泊と呼ばれる船着場が造られ、水上交通や物資の輸送を担っていたと思われます。
慶長7年(1602)に、四層櫓の天守が築かれていたが、寛保3年(1743)の大火により焼失。以降再建されることなく、現在に至っており、現在の「府内城址」と呼ばれている部分は、本丸の内堀を埋め立て、西丸城壁を壊して通用路が作られたものです。
寛保3年(1743)の大火により、天守をはじめ城内の多くの建物が焼失した。その後も明和6年(1769)の大地震、安政元年(1854)の大地震、昭和20年(1945)の空襲により、損壊した建物が多いが、再建されたものは少なく、江戸時代の建物は人質櫓と宗門櫓のみとなっています。現在の人質櫓は、文久元年(1861)に再建されたものです。
府内城の玄関口であるため大手門と呼ばれていますが、正確には「多聞櫓門(たもんやぐらもん)」という名称になります。昭和20年(1945)の空襲により焼失し、現在の建物は昭和41年(1966)に復原建築されたものです。
人質櫓とともに現存する江戸時代の建物になります。現在の建物は安政6年(1859)に再建されたものですが、当初の建物の規模・工法を引き継いでの修理であったと考えられています。城の外から見ると平櫓に見えますが、城内からは二重に見える建物で、平地に石垣を積んで築城する際、櫓の部分に櫓台を設けていないため、このような地階を付けています。
天守台の下にお宮を祀った祠があります。これは、福原直高が築城の際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てることになり、上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うため、弁財天の木像を抱いて人柱となり、その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに鎮守としてあがめられたと伝えられています。
かつて茶の湯や能、月見など諸芸能の営まれた山里丸と西の丸を結ぶ渡り廊下。大分市発足30周年記念事業である府内城再発見事業により、平成7年度に復元しました。古絵図に描かれていた、大手門の廊下橋の意匠を元にしています。
廊下橋復元に伴う発掘調査によって確認された、築城当時の石垣。現在見ることができるよう、整備をしています。
慶長6年(1601)府内に入部した、府内城主竹中重利の墓。重利は、建築中であった府内城を完成させ、府内城下町を建設した人物であり、府内藩の基盤が形成されたと言えます。
元来直接河口に面していた本丸を囲うように、北方の砂州中島を基点とし東北から東にかけて人工の堤を築き、内側を石垣とし、堤上に松などの樹木を植えて区画した場所。
「日本100名城スタンプ」は大手門下に設置しています (24時間押印可能)。
府内城は、昭和41年に「城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっています。
また、3月下旬から4月上旬には、桜が咲き誇り、多くの方々が見物に来られます。
宗門櫓(城内から)
人質櫓(北西から)
天守台(城外から臨む)
大手門(南から)
廊下橋(西から)
帯曲輪(北から)
所在地:大分市荷揚町
城の形状:平城
主な築城年:1597年(慶長2)・1601年(慶長6)・1602年(慶長7)・1638年(寛永15)
築城者:福原直高・竹中重利
主な遺構:宗門櫓・人質櫓・石垣・堀・天守台
指定区分:大分県指定史跡・大分市指定史跡
見学について:いつでも見学可能、見学時間 40~60分目安(現地にあるウオーキングマップを使って見学した場合)
アクセス:【大分駅から】徒歩で約10分バス乗車約5分(大分市役所前下車)
【高速道路から】東九州自動車道大分ICから車で約20分
府内城ウオーキングマップは以下の画像よりダウンロードください。
【府内城ウオーキングマップ 表面】
【府内城ウオーキングマップ 裏面】
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