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更新日:2014年5月13日
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大分市教育委員会では、大分市顕徳町三丁目に所在する大友氏館跡の国史跡指定・公有地化ならびに史跡整備のための発掘調査を関係住民の皆様にご協力をいただきながら、順次おこなっています。また、平成17年3月2日に、大友氏 の菩提寺(ぼだいじ)である万(まん)寿寺(じゅじ)跡(あと)が追加指定され、史跡名称も「大友氏館跡」から「大友氏遺跡」に変更されました。
大友氏館跡は北部九州六カ国の守護(しゅご)職(しょく)を務めた大友義(よし)鎮(しげ)(宗麟)の館跡です。館は一辺約200m四方の方形であったと推定されており、京都の室町将軍邸をモデルに造られた守護館の典型的な姿であったと考えられています。戦国時代の西国の中心的な役割を果たした館跡であり、その歴史的価値の高さから、平成11年に文化庁より全体指定の方向が示され、平成13年8月13日にその一部が国の史跡に指定されました。これまでの発掘調査では、館跡の南東部分から東西長 60m以上の規模をもつほどの巨大な池を伴う庭園跡が発見されています。池庭には凝灰岩(ぎょうかいがん )や安山岩(あんざんがん)製の庭石が置かれ、周辺には松などの樹木が植えられていたことがわかっています。
大友氏館庭園跡
池の周囲に並べられた景石
大友宗麟
キリスト教を保護し南蛮貿易により豊後府内の栄光を築いた大友家第21代当主。
大友氏の町は、大分川河口西側の微(び)高地(こうち)につくられた
(赤で囲まれたところが大友氏館跡・青で囲まれた所が万寿寺跡)
大友氏の菩提寺である万寿寺跡は、一三○六年、五代貞(さだ )親(ちか)の代に現在の元町に建立されました。近年実施された大分県教育委員会の発掘調査により、当時の堀跡が発見され、その姿が徐々に明らかになりつつあります。万寿寺跡は、禅宗(臨済宗)の大寺院であったと伝えられ、 画聖(がせい)・雪舟も訪れたといわれています。一説には大友氏の迎賓館的な役割を果たしたともいわれています。その後、万寿寺は、一五八六年島津氏府内侵攻時に焼失し、一六三三年に現在の金池町に再建され、今にいたっています。
大友氏の本拠地であり、とくに戦国時代後半期の20代義(よし)鑑(あき)・21代宗麟(義鎮)・22代義(よし)統(むね)のときに最盛期をむかえました。府内の中心には大友館が置かれ、館の南東側には広大な敷地をもつ大友家の菩提寺万寿寺がありました。 当時の府内の様子を描いた「府内(ふない)古図 (こず)」と呼ばれる絵図には40あまりの町が描かれ、キリスト教の宣教師などの記録によると、府内には5000軒の屋敷が建ち並んでいたとされます。近年の発掘調査でも東南アジアや中国南部産の焼き物が数多く発見され、府内には南蛮貿易により中国はもとより、東南アジア、ヨーロッパの文物にあふれていた様子が明らかになりつつあります。
横小路町跡からみつかった甕蔵跡(かめぐらあと)(現在の錦町)
ミャンマー産黒釉三耳壺(こくゆうさんじこ)
1999年8月15日発行 市報大分特集号 大友館跡と宗麟
内容 はじめて姿をあらわした・大友遺跡
大友関連遺跡の紹介・中世の400年の輝き
大分のまちの特質と繁栄・三時代の遺跡
マンガ・英傑豊後王大友宗麟全15P
日本語版
ENGLISH version
大分市では、このような貴重な文化財をいかに次世代へ伝えるか、また今の人々の暮らしにどのように活かすかを地域の人々ともに考え実践しようとしています。
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