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更新日:2020年1月29日
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今から400年以上遡る16世紀の戦国時代、大分川河口左岸にあたる現在の元町、顕徳町、錦町、長浜町一帯に府内のまちが広がっていました。その広さは東西に0.7キロメートル、南北に2.1キロメートルに及んでおり、まちの中心には一辺200メートル四方の敷地を持つ「大友館」がありました。その周囲には碁盤目状に延びる東西5本、南北4本の街路が走り、これに沿って40あまりの町が形成されていました。まちの一角には、「万寿寺」をはじめとした寺社、「デウス堂」と呼ばれた教会があったとされています。
現在、大分県庁前の南北に長く延びた遊歩公園には、南蛮文化を記念する彫刻や記念碑が建てられ、西洋とのかかわりを偲ばせています。
大友氏5代貞親(さだちか)によって徳治元年(1306)に建立された臨済宗の寺院です。発掘調査により、戦国時代には寺の周囲に堀が巡っていたことがわかりました。寺は天正14年(1586)、島津軍の府内侵入に際し焼失しました(国指定史跡)。
所在地 大分市大字大分
戦国時代の府内のまちの中心にあった大友氏の館跡です。館は、一辺200メートル四方もの敷地を持つ、日本でも最大規模の館でした。発掘調査によって庭園跡や礎石を使った大型建物跡などが発見され、戦国大名の館としては全国屈指の規模を誇ります(国指定史跡)。
現在、史跡整備が進んでおり、隣接する「南蛮BVNGO交流館」では、大友氏遺跡や大友氏について楽しく学ぶことができます。
所在地 大分市顕徳町3丁目
電話 097-578-9191(南蛮BVNGO交流館)
駐車場あり
文忠梵榮上人を開祖として、大友氏18代親治(ちかはる)によって文亀元年(1501)に建立された浄土宗の寺院です。それ以来500年以上この地にあります。江戸時代の記録には、寺は広大で美しく、障壁画で飾られた書院があったと記されています。
所在地 大分市錦町1丁目1番
駐車場あり
戦国時代のまちの様子を描いた古絵図に日蓮宗寺院の「本光寺」と並んだ位置に描かれ、今から約400年前には創建されていたと考えられます。稲荷社は、商いの神として祀られており、現在も当時と同じ場所に建っています。
所在地 大分市錦町2丁目
金池町の万寿寺は、江戸時代になって丹山和尚が府内城主であった竹中重義の援助を受けて再興したものです。今も僧侶の修行の寺となっています。
所在地 大分市金池町5丁目4番
駐車場あり
大友氏初代能直(よしなお)が建久年間(1190~99)に、源氏の氏神を祀る鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊したと伝えられるお宮です。江戸時代になると、島津氏との争いにより荒廃していた当社を、竹中重利(しげとし)をはじめとした府内藩主が再築し、正保元年(1644)には日根野吉明(よしあきら)により祭礼も再び行われるようになります。3月3日の祭りは「御櫛形祭禮(おくしかたさいれい)」と呼ばれ、神楽や能が演じられるなど、賑やかな様子が「府内藩日記」に記されています。
所在地 大分市上野町10-28
戦後、市の復興計画の一環として、昭和26年に整備されました。長さ約400メートル、幅約10メートルの南北に長い公園で、南蛮文化のかおる彫刻や記念碑が点在しています。
日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルは、天文18年(1549)に来日しました。鹿児島、平戸、山口で布教し、天文20年(1551)に大友宗麟の招きにより府内で布教しました。これをきっかけに府内は、キリスト教布教の拠点のひとつとなり、教会・育児院・病院・学校などが次々につくられ、西洋文化がめざましく開花しました。
府内は、聖フランシスコ・ザビエルがこの地で布教して以来、日本最初の西洋文化の栄えたまちとなりました。天文22年(1553)には、大友宗麟の援助により府内教会が建てられ、弘治3年(1557)、復活祭の聖週間には聖歌隊ができ、オルガンの伴奏で賛美歌を合唱しています。
天正7年(1579)に来日した宣教師ヴァリニャーノの勧めにより、九州のキリシタン大名たちの名代として伊東マンショをはじめとした4人の少年がローマに派遣されました。天正12年(1584)にポルトガルのリスボンに上陸し、天正13年(1585)にローマ教皇グレゴリウス13世と謁見しました。少年たちは各地で熱狂的に迎えられ、天正18年(1590)に8年半ぶりに帰国しました。
ポルトガル人青年医師アルメイダは、宗麟の許可を得て育児院を府内につくるとともに西洋式の病院を開設しました。そこでは、内科だけでなく日本初の西洋式外科手術が行われ、無償で治療にあたったといわれています。永禄5年(1562)には入院患者が100人を超え、患者はこの新しい西洋医術をうけるために、京都や関東からも訪れたと当時の記録にあります。