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更新日:2020年1月29日

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坂本龍馬、勝海舟も駆け抜けた佐賀関・肥後街道

幕末の坂本龍馬と勝海舟の足跡を追う

幕末にあたる文久4年(1864)にオランダ・アメリカ・イギリス・フランスの4か国連合艦隊の長州への攻撃の動きがあり、その下関砲撃中止の交渉のため幕府から長崎に向かうように命じられた勝海舟。海軍塾の塾頭の坂本龍馬を連れて神戸から佐賀関に上陸しました。上陸後、佐賀関の徳応寺に宿泊後、佐賀関街道・肥後街道に沿って鶴崎や野津原にて宿泊しています。こうして熊本経由で2人は長崎に向かっていきました。

「海舟日記」によれば、佐賀関において
「十五日五時 豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿す。」
「十六日、豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀関より五里。此地、街市、可なり、市は白滝川に沿う。山川水清、川口浅し。」
「十七日、野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず。八幡川あり、大低一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。海道(街道)広く、田畑厚肥、桃菜花盛、」
と日記に記されています。

また、鶴崎では「大御代は ゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴崎」の一首が詠まれ、野津原では、
「民のかまど ゆたけきものを、しらぬいの つくし生うてう 野津原のさと」の句が残されています。

関連スポット

徳応寺

元和元年(1615)に、明通上人によって沖ノ島(佐伯市蒲江の離島)から佐賀関の地に徳応寺を移し再建しています。幕末期には、下関砲撃中止の交渉のため、幕府から命を受けた勝海舟が、坂本龍馬とともに長崎へ向かう際、文久4年(1864)2月15日に九州に上陸した一行がこの寺を訪れ宿泊しています。この記録が徳応寺所蔵の「日本人物誌」に詳しく残されています。

所在地・連絡先

所在地 大分市佐賀関2126

電話 097-575-0085

※見学時は、事前に連絡(午後5時まで)が必要です。

西谷橋

江戸時代後期に肥後街道に築造された一連の石造アーチ橋で、橋長約8.0メートル、幅員約2.05メートルです。輪石(わいし)の要石(かなめいし)の裏面に、「文政七年(1824)甲申(きのえさる)三月 臼杵 大野 石工 新左エ門 友蔵」と刻まれており、臼杵藩大野村(現在の臼杵市大野)の石工の作であることがわかります。豊後に架けられた石橋の中では早い時期のもので、小ぶりですが形の整った優美な石橋です。

所在地

所在地 大分市大字大平字西谷

鶴崎御茶屋

熊本藩主加藤清正公は参勤交代の海の玄関口として鶴崎の重要性を認め堀川を開いて、港、宿泊所(御茶屋)を戦国時代の鶴崎城の跡に造りました。後年、細川氏もこれを受け継いでいます。御茶屋は単なる藩主の宿泊所ではなく、鶴崎における政治・経済・軍事などの機能を持っており、熊本藩の鶴崎支庁としての役割を担っていました。

所在地・連絡先

所在地 大分市南鶴崎3丁目3番1号(鶴崎小学校)

電話 097-521-2441

※見学時は、事前に連絡が必要です。

勝海舟、坂本龍馬宿泊の地

現在、大分市南鶴崎の大分鶴崎高校と鶴崎小学校に挟まれた「思索の道」には、「勝海舟・坂本龍馬宿泊の地」を記した立札が建てられています。

宿泊の地

所在地

所在地 大分市南鶴崎3丁目4番(思索の道)

参勤交代道路(今市石畳)

豊後鶴崎と肥後熊本を結ぶ肥後街道の石畳道です。岡藩の宿場として慶長年間(1596~1615)に中川氏によって設けられ、上町・下町からなっています。両町の境は、道がクランク状に曲がり角をつけて宿場を見通せないようにしています。今も幅2.1メートル、長さ660メートルにわたって石畳が残っています(県指定史跡)。

今市石畳

所在地

所在地 大分市今市

駐車場あり

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部文化財課 

電話番号:(097)537-5639

ファクス:(097)536-0435

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