更新日:2025年7月19日
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1973(昭和12)年に日中戦争が始まり、さらに1941(昭和16)年には太平洋戦争が開戦し、約8年間戦争の時代が続きました。大分からは日中戦争の初期から多くの兵士が出征し、太平洋戦争末期には戦況の悪化により、大分も空襲を受けるなど市民生活は戦争から大きな影響を受けることになります。
1945(昭和20)年8月15日、日本は降伏を受け入れましたが、戦争の影響は残り続けました。しかし、その中でも人々は平和と復興を目指しました。戦後80年を迎え、今回の展示では、大分に残る資料を中心に、「大分の戦争と平和」について紹介します。
7月19日(土曜日)~9月28日(日曜日)
かつての大分市域には多くの軍事関連施設があり、戦前から、旧日本陸軍の歩兵第47連隊が駐屯し、その基地がありました。大分県出身者で構成されたこの連隊は郷土部隊と呼ばれ、日中戦争が始まると戦地に派兵されました。さらに旧日本陸軍は豊予海峡防衛のために豊予要塞を築き、高島や関崎などに砲台を設置するなど、海峡を侵攻してくる船等を想定し、備えていたのです。
旧日本陸軍鉄帽
戦争は日常の生活に深く結びつき、人々が普段目にする新聞や雑誌などでは、戦況や軍事に関する記事が中心を占めるようになりました。戦況の悪化に伴い、大分でも空襲が始まり、1945(昭和20)年7月16日の空襲によって、大分市中心部は壊滅的な被害を受けました。当時の旧荷揚町国民学校の学校日誌には、空襲警報の発令時間など、空襲の日の状況が記録されています。
防空頭巾
1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏することを決定し、「玉音放送」によって各地に報じられました。このことから私たちは8月15日を「終戦の日」としています。しかし、この日以降も捕虜となった兵士たちはシベリアやモンゴルなどに抑留され強制的に労働を科され、また満州や朝鮮半島に移り住んでいた人たちは過酷で長い引き揚げを余儀なくされるなど、困難な状況は戦後も長く続くことになります。
モンゴル抑留者着用の旧日本陸軍コート
戦争は多くの悲劇を生みました。日本は米軍を中心とする連合軍に占領され、空襲で焼け野原になったまちなど多くの戦争の傷跡が残されました。それでも日本は復興にむけて歩み始め、1947(昭和22)年には戦争放棄をうたった第9条を含む日本国憲法を制定し、平和な社会を築き現在に至ります。
マ総司令官諭告綴
午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
※ 都合により、上記内容について、変更になることがあります
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