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更新日:2022年3月23日
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毛利空桑記念館は、新型コロナウィルス感染予防、拡大防止対策を講じながら、開館しています。
新型コロナウィルス感染予防・拡大防止のための対策
今後、開館状況等変更がありましたら、随時ホームページ等でお知らせいたします。
毛利空桑(もうりくうそう、1797年~1884年)は江戸時代から明治時代にかけて活躍した尊王の教育者です。空桑は号で、本名は倹(けん)と言いました。
寛政9年(1797年)、熊本藩医毛利太玄の第二子として現在の大分市常行に生まれました。14歳で脇蘭室に、その3年後に帆足万里に学びました。その後、熊本の大城霞坪(おおきかへい)、福岡の亀井昭陽(かめいしょうよう)にも教えを受けます。文政7年(1824年)28歳の時に常行に帰り、塾を開きました。嘉永6年(1853年)には吉田松陰(よしだしょういん)が、続いて水戸の浪士斉藤監物(さいとうけんもつ)が来訪するなど、遠く九州まで足を伸ばして意見を求める勤王家や密使があとをたたなかったといわれています。安政4年(1857年)61歳のとき、居宅と塾を現在地に移し、居宅を天勝堂(てんしょうどう)、塾を知来館(ちらいかん)と名付けました。
万延元年(1860年)64歳のとき、熊本藩が鶴崎に成美館という郷校を建てますが、ここでも文学と武芸の教鞭をとりました。また、青少年のために有終館を建て、イギリス式訓練、文学、殖産の教導にあたり、青少年と寝食を共にしながら日本の形成を解きました。
明治3年(1870年)73歳のとき、長州藩の内乱に敗れた大楽源太郎ら数十名が空桑に保護を求めてきたため、これを保護し、竹田・久留米に送り届けました。このため、空桑親子は投獄の刑を受け、一年後には釈放されましたが、家禄没収・除籍されました。以後、大野川の河畔で著作に没頭し、明治14年(1881年)国会開設にそなえて大分県で最初の政党天壌社、明倫学会を結成するなど、常に反骨の指導力を発揮しました。
それから3年後、明治17年(1884年)12月22日88歳で没しました。
毛利空桑記念館は、知来館と天勝堂、遺品館の3つの施設で構成されています。
空桑が開いた私塾です。1階は生徒の日常生活の場、2階は講義室となっています。禁酒、男女交際や娯楽の禁止など、25か条にのぼる厳格な塾則のもとに、遠くは山城(京都府)、和泉(大阪府)、美濃(岐阜県)などから生徒が集まり勉学に励みました。門下生は890人を数えます。建物は現在も残っており、県の史跡に指定されています。
空桑の私宅です。知来館と一緒に安政4年(1857年)に建てられました。1階は5室、2階は3室からなっており、2階のはしごは防戦のため取り外しができる構造となっています。江戸時代の民家の造りを伝える貴重な建物で、県の史跡に指定されています。
遺品館には、空桑の著述や詩作などの史料や文献、生活用品などの遺品を展示、収蔵しています。現在の遺品館は、昭和60年(1985)年に整備されたものです。
開館時間 |
午前9時~午後4時30分 |
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休館日 |
毎週月曜日(祝日の場合は翌日) ただし毎月第1月曜日は開館し、翌日休館 年末年始(12月28日~1月4日) |
住所・連絡先 |
大分市鶴崎381-1 電話:097-521-4893 |
アクセスについて |
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入館料 |
無料 |
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