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更新日:2026年10月13日
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幕末から明治にかけて活躍した鶴崎出身の尊皇の教育者である毛利空桑(もうりくうそう)の功績について紹介する施設です。
記念館は、知来館(ちらいかん)、天勝堂(てんしょうどう)、遺品館(いひんかん)の3つの施設で構成されており、空桑が開いた私塾や私宅の建物を見学できるほか、空桑の著述や詩作などの史料や文献、生活用品などの遺品を展示しています。

空桑が開いた私塾です。1階は生徒の日常生活の場、2階は講義室となっており、階段は防戦のため取り外しができる構造となっています。禁酒、男女交際や娯楽の禁止など、25か条にのぼる厳格な塾則のもとに、遠くは山城(京都府)、和泉(大阪府)、美濃(岐阜県)などから生徒が集まり勉学に励みました。門下生は890人にもおよびました。文政7年(1824)に開かれ、現在地には安政4年(1857)熊本藩の援助で建てられました。

空桑の私宅です。知来館と一緒に郷里の常行村に建てられたものです。現在地には、安政4年(1857年)に知来館とともに移転・改築されました。1階は5室、2階は3室からなり、階段は、知来館と同じく防戦のため取り外しができる構造となっています。江戸時代の民家の造りを伝える貴重な建物です。
現在の遺品館は、昭和60年(1985)年に整備されたもので、空桑の著述や詩作などの史料や文献、生活用品などの遺品を展示、収蔵しています。
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開館時間 |
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで) |
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休館日 |
毎週月曜日(祝日の場合は翌日) ただし毎月第1月曜日は開館し、翌日休館 年末年始(12月28日~1月4日) |
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住所・連絡先 |
大分市鶴崎381-1 電話:097-521-4893 |
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アクセスについて |
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入館料 |
無料 |
毛利空桑( 1797年~1884年)は、江戸時代から明治時代にかけて、大分(鶴崎)を中心に活躍した尊皇の儒学者・教育者です。空桑は号で、本名は「倹(けん)」と言いました。
寛政9年(1797年)現在の大分市常行に生まれました。14歳で鶴崎の脇蘭室(わきらんしつ)に学んだのを皮切りに、帆足万里(ほあしばんり)、大城霞坪(おおきかへい)、亀井昭陽(かめいしょうよう)といった当時の著名な学者たちのもとを巡り、高い学識を身につけました。文政7年(1824年)、28歳で故郷へ戻り、自身の塾を開いて後進の育成をスタートさせます。
空桑は「文ありて武なきは真の文人にあらず。武ありて文なきは真の武人にあらず」を信念とした剛毅端正(ごうきたんせい)な人で、勤倹(きんけん)を実践して子弟の指導にあたりました。
安政4年(1857年)、61歳のときに居宅と塾を現在地(大分市鶴崎)に移転し、居宅を天勝堂、塾を知来館と名付けます。嘉永6年(1853年)に吉田松陰が訪れたほか、水戸の浪士など、遠く九州まで足を伸ばして空桑に意見を求める勤王家や密使があとをたたなかったと言われています。また、万延元年(1860年)に建てられた熊本藩の郷校「成美館」や、青少年のための「有終館」でも、イギリス式訓練や文学、殖産の教導にあたりました。
明治3年(1870年)、73歳のときに長州藩の内乱に敗れた大楽源太郎ら数十名が保護を求めてきたため、これをかくまい竹田・久留米に送り届けました。このため親子で投獄の刑を受け、1年後に釈放されたものの家禄没収・除籍処分となりました。
処罰後も大野川の河畔で著作に没頭。明治14年(1881年)には国会開設にそなえて大分県最初の政党「天壌社」「明倫学会」を結成するなど、常に反骨の指導力を発揮しました。
生涯をかけて青少年の教育に尽くした功績により、明治17年(1884年)には従六位の位が与えられました。
そして同年12月22日、88歳でその生涯を閉じました。空桑の墓は現在も常行にあり、大分市指定史跡となっています。