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更新日:2018年1月5日

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歴史・伝統

ついにベールを脱いだ大友宗麟と南蛮文化

戦国武将・大友宗麟と聞いて、一番最初に思い浮かぶのがキリシタン大名だったということ。しかし、それ以上のことを語れる人は、地元・大分市民でも意外と少ないのが実際のところです。「世界に目を向けた大名」とも言われる大友宗麟の実像を、最新の調査結果を踏まえ、あらためてご紹介します。

世界に開かれた国際貿易都市・豊後府内
16世紀の世界地図(府内中央口広場)

大友宗麟は、鎌倉時代から約400年続いた大友氏の21代当主です。豊後府内(現在の大分市)に生まれ、1550年に「二階崩れの変」と呼ばれた家督相続をめぐる内紛を治め、20歳という若さで当主となりました。
当主となった翌年、山口で布教活動をしていたフランシスコ・ザビエルを招き、キリスト教の布教を許可します。ザビエルはわずか2ヶ月しか豊後府内にいませんでしたが、この時に宗麟はポルトガル王へ親書と使者を遣わし、翌1552年から多くのポルトガル人商人や宣教師が豊後府内を訪れることになりました。
ここから南蛮貿易の地として豊後府内の名が知られるようになりました。南蛮貿易といえば長崎のイメージが強いですが、長崎にポルトガル船が入港したのは1570年以降。つまり20年も前に豊後府内は南蛮貿易をスタートさせていたのです。

西洋医術発祥記念像(遊歩公園)
大砲「国崩し」(臼杵公園)

豊後府内の地は、多種多様な西洋の文物を受け入れた日本で初めての地となりました。日本最初の西洋式病院、西洋音楽、西洋演劇、ボランティア活動、大砲、カボチャなど、数え上げたらきりがありません。豊後府内のまちにはヨーロッパや東南アジア、中国、朝鮮などの国々からもたらされた品々があふれ、さまざまな国の人たちが行き交いました。
大友宗麟はこうした南蛮貿易により得た莫大な経済力を背景に勢力を拡大し、最盛期には北部九州6ヶ国の守護職に任じられるまでに至ります。当時のヨーロッパで描かれた日本の地図には、九州に「Bungo(豊後)」と記されており、いかに宗麟の力が大きかったかがわかります。

世界を見据えて未来を築いたインテリタイプの大名

宗麟はもともと家督を継ぐ前にあたる10代の頃から、現在の春日浦や住吉泊地付近にあったとされる外港・沖の浜に通いつめていました。当時の沖の浜には中国船などが来航し、そこで船員やポルトガル商人らと交流を持つようになった彼は、世界の国々や文化に興味を持ちはじめ、同時に知性も磨かれていきました。
戦国時代といえば、力ずくで領地を広げていった武将が多い中、宗麟は貿易で得た莫大な経済力を背景に、卓越した政治手腕で勝負を挑みました。生涯を通して優秀な家臣に恵まれ、コミュニケーション能力の高さを表しています。

大友館の庭園復元で壮大な歴史ロマンを体感
金細工破片
タイ産四耳壷
彫三島茶碗

1998年、大分市顕徳町付近で見つかった大友氏遺跡で発掘調査が始まり、大友氏遺跡やその周辺の中世のまちの跡から、豊後府内が国際貿易都市として栄華を誇ったことを示すものが多数出土しています。
このうち、大友氏館の庭園跡は、1998年の発掘調査により発見され、2016年5月から2020年3月までの間、整備工事を進め、2020年6月から一般公開を開始しました。
庭園には東西67メートル、南北30メートルの大きな池があり、戦国時代の大名の館の中では日本最大規模。東と西で異なる池の景色が楽しめることも見どころの一つです。
また、大友氏館跡庭園に隣接する「南蛮BVNGO交流館」は、”宗麟の生きた時代を体感できる施設”をコンセプトに、大友氏遺跡や大友宗麟の功績が、工夫を凝らした展示や迫力ある映像等で紹介されています。

大友氏館跡庭園

JR大分駅から歩いて約10分と便利な場所に位置する大友氏館跡に行けば、新たな宗麟像が発見できるかもしれません。

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