更新日:2018年6月13日

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歴史・伝統

歴史深き肥後街道を歩く

 

今年で明治維新から150年。誰もが知る幕末の志士・勝海舟と坂本龍馬が、幕府の命により長崎出張に赴いた際、佐賀関に上陸し、肥後街道を抜ける道を通ったことはあまり知られていません。参勤交代のために整備された「肥後街道」や、肥後藩の要地として栄えた鶴崎の様子などを振り返り、当時の大分市を紹介します。

市内を横断した幕末の志士たち

 

勝海舟と坂本龍馬が歩んだ長崎までの道のり

1863年、尊王攘夷運動の中心であった長州藩が関門海峡を通る外国船を砲撃。英・仏・米・蘭の連合艦隊が報復攻撃を企てていました。幕府の要人だった勝海舟は、幕府より連合艦隊による砲撃を中止させる命を受け、1864年、海軍塾の塾頭・坂本龍馬を連れ立ち神戸を船で出帆。佐賀関に上陸し、陸路で肥後街道を通り熊本を経由し、長崎のオランダ総領事館へ交渉に向かいました。
海舟・龍馬が通った肥後街道とは、江戸時代に肥後藩主・加藤清正によって開かれ、肥後藩の参勤交代に用いられた街道で、肥後国熊本と豊後国鶴崎を結ぶ、全長約124キロメートルの道です。

 

日本人物誌(徳応寺所蔵)
日本人物誌の「第二長崎丸」スケッチと上陸した際の記述部分

海舟、龍馬ら一行は、2月14日に神戸出帆後、翌日、「第二長崎丸」という船で佐賀関に上陸し、海を望む高台の寺「徳応寺」に宿泊しました。
幕末から明治中期までの激動の時代を海舟の言葉で綴った「海舟日記」には、佐賀関において「15日 5時 豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿す。」と記されています(後日、豊前を豊後に改めました)。
佐賀関の翌日、海舟と龍馬は鶴崎に一泊し、17日に野津原、18日は久住で宿泊し、肥後街道を抜け熊本から長崎へ…。 

肥後藩「鶴崎」に残された記録

二人が鶴崎で宿泊したとされる本陣(いわゆる御茶屋 藩主の休憩所・宿泊所)は、もともと「鶴崎城」だった場所で、1600年以前には、現在の鶴崎小学校や鶴崎高校がある場所に城が存在し、大友宗麟の家臣・吉岡宗歓が治めていたと言われています。
関ヶ原の戦いで徳川方に付いていた肥後藩主・加藤清正は、その功績として1601年に家康より鶴崎を飛び地(城がある領土に対して遠隔地に分散している領地)としてもらい受け、御茶屋を造りました。鶴崎の御茶屋は政治・経済・軍事の機能も備えていました。鶴崎は瀬戸内海に臨む海の玄関口として、陸海路の利便性に優れた場所でありました。清正は港湾整備のため、堀川の開削や乙津川の分流の埋め立てなどを行い、参勤交代の要地として整備しました。
毛利空桑は、幕末から明治初期に活躍した儒学者、教育者で、1813年に帆足万里のもとで儒学を学び、高い学織を持っていました。勝海舟も、帆足の門下生である空桑を「師匠勝りの気節に富んだ男」として訪ねたとされています。

「知来館」と一緒に建てられた、毛利空桑の旧宅「天勝堂」(大分県指定文化財)

1824年に開いた私塾「知来館」には、遠くは京都、岐阜などから生徒が集まり、門下生は890人を超えたといわれています。空桑は生涯を通じて「正しい人間の生き方とは何か」を熱く説き続けました。その志に共感した吉田松陰、水戸藩の斉藤監物らが空桑を訪ねました。
2015年、毛利空桑記念館の前に勝海舟と坂本龍馬の石像が建てられました。彼らが鶴崎を訪れたことを伝えるため、地元を中心に大勢の有志による募金活動などを通じて造られたものです。石像には、海舟が鶴崎に宿泊した際に詠んだ句が刻まれています。

「大御代はゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき」

鶴崎での一夜を楽しく過ごした二人の様子がうかがえます。

勝海舟と坂本龍馬の石像(毛利空桑記念館前「空桑思索の道」に2015年建立)
参勤交代によって発展した宿場町

肥後一国(熊本)の支配を任された加藤清正は、豊後国内の領地が欲しいと望みました。瀬戸内海への海路を確保するために獲得した鶴崎の他にも、野津原や久住など約二万五千石が、肥後藩の飛び地となりました。この飛び地を繋ぎ、熊本から鶴崎まで参勤交代の街道「肥後街道」を造り、豊後国内では鶴崎、野津原、久住に御茶屋を置きました。御茶屋を中心に形成した「宿場町」は、参勤交代で陸路を旅した一行が、目的地へ向かう途中で体を休め、英気を養う場所として繁栄しました。

細川韶邦(よしくに)公御初入部御行列画図(劔八幡宮所蔵)公開の様子(鶴崎公民館)

肥後藩の加藤氏・細川氏の参勤交代の旅路は、熊本から大津・内牧・久住・野津原と肥後街道を抜けて4泊5日で九州を横断し、鶴崎到着後は海路で瀬戸内海を渡り、大坂(大阪)に到着。その後は、東海道を江戸に向かっていました。これが当時、熊本から江戸までの最短ルートでした。船着場からは「波奈之丸」という御座船が大坂との間を行き来し、参勤交代の際、多い時では67隻が藩主の舟に付き従い、鶴崎の港から出ていました。
肥後藩の領地であり、御茶屋が設けられた野津原の宿場町は、七瀬川という天然の堀と山に囲まれ、防衛面にも優れていました。現在の野津原小学校がある場所に御茶屋があったとされ、熊本と鶴崎を結ぶ拠点のひとつとして発展しました。

今市の石畳

小藩分立により「独自文化」が今も息づく

最盛期には、九州9か国中6か国を支配下に置いていた戦国大名の大友氏。しかし宗麟の子・義統の時代に、豊後国を豊臣秀吉に没収されてしまいます。その後、徳川家康が天下を取り、豊後は関ヶ原の戦いの褒美として家臣たちに分配されました。豊後の大名配置を大きく変えることで、大友の残存勢力を抑える目的もあったといわれています。豊後は小藩分立となり、現大分市域に領地を持っていたのは府内・岡・臼杵・肥後・延岡の各藩と幕府領でした。

江戸時代末期の小藩分立の様子(現在の大分市域)

小藩分立は、地域独自の文化を生み、現在も祭りや伝統行事として受け継がれています。
鶴崎三大祭りと呼ばれる「本場鶴崎踊大会」「けんか祭り」「二十三夜祭」は、その名残をとどめ、今でも季節の風物詩として、地元の人たちに愛されている行事です。
小藩分立になる前、まだ大友氏が栄華を極めていた頃、京都から踊り子を呼び、大友宗麟の前で踊らせたのが起源といわれる「鶴崎踊」は1560年頃に始まり、今も大切に踊り継がれています。小藩分立後、1646年に造営された劔八幡宮では、毎年4月に「けんか祭り」が行われます。当時の領主・細川氏からみこしが寄進され、今ではみこしを先頭に宝剣を飾りつけた山車が町内を練り歩き、見るものを楽しませています。毎年7月23日に行われる「二十三夜祭」は、法心寺を建てた加藤清正をしのんだ供養祭です。同じ地域に、時代も領主も違う祭りが根付いたのも、鶴崎の人たちが大切に守り継いできたからです。
また、野津原地区では毎年8月23日・24日に「清正公祭り」が行われます。加藤清正を野津原神社にまつり、みこしや山車、神楽などに彩られるきらびやかな夏祭りです。領主の加藤清正が人々に愛されていたことがうかがえます。
1874年、廃藩置県により豊後全域と豊前の一部は大分県になりました。江戸時代の小藩分立により独自文化が息づいた大分市。各地域に残る祭りや伝統行事、文化財、史跡などが私たちの誇りです。

本場鶴崎踊大会
けんか祭り
二十三夜祭

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