大友宗麟とその時代

 大友宗麟は、今から483年前の1530年に誕生しました。当時、豊後府内(現大分市)には、上野と顕徳町の二箇所に大友館があり、このいずれかで生まれたものと思われます。幼名を塩法師丸、その後、10歳の時に元服し、当時の室町幕府第12代将軍「足利義晴」の義の字をもらい、義鎮(よししげ)と名乗るようになります。宗麟20歳の時、1550年に、「大友二階崩れの変」と呼ばれる家督相続をめぐる内紛を治め、若くして大友家第21代の当主となりました。


 翌年1551年には、当時、山口で布教をしていたフランシスコ・ザビエルを豊後府内に招き会見をしています。この宗麟とザビエルの歴史的な会見により、キリスト教の布教が許可されます。ザビエルはわずか2ヵ月で豊後府内を去ることになりますが、この時、宗麟はポルトガル王へ親書と使者を遣わし、翌年1552年から多くのポルトガル人宣教師がこの豊後府内に訪れるようになります。これを契機にいわゆる南蛮貿易が、現在の春日浦から住吉泊地にかけてあったと考えられている「沖の浜」と呼ばれる港を窓口として行われるようになりました。


大友宗麟肖像画(京都大徳寺瑞峯院所蔵) 宗麟が20代であった この1550年代は、南蛮船の寄港もさることながら、自ら積極的に中国や東南アジアと交易を行っています。


 こうした貿易により蓄積した経済力を背景に、 北部九州6ヶ国の守護職を任じられるなど大友氏400年の歴史の中において最盛期を迎えることになります。


 宗麟はキリスト教の布教を保護しながらも、自らは禅宗に帰依し、剃髪して「宗麟」と名乗るようになります。京都の大徳寺にある宗麟の菩提寺「瑞峯院」に伝わる宗麟唯一の肖像画には、剃髪した宗麟の姿が描かれています。


 宗麟は、1578年48歳の時にようやくキリスト教の洗礼を受け、名実ともにキリスト教徒になります。洗礼名はフランシスコ。フランシスコ・ザビエルにちなんで自ら選んだと言われています。この年に日向に遠征しますが、「日向高城 耳川の合戦」により薩摩の島津氏に敗れ、ここから大友氏の権勢に陰りがみえるようになります。そして、9年後の1586年、宗麟56歳の時に、薩摩の島津氏がここ豊後府内に侵攻し、繁栄を極めた国際貿易都市 豊後府内は灰燼に帰してしまいます。


 その翌年、1587年、秀吉の九州平定の後、宗麟はこの年の5月に57年の人生に幕を下ろします。折しも秀吉によるバテレン追放令が出される直前の出来事でした。


  (1)大友宗麟の人物像

ティセラ日本図(大分市歴史資料館所蔵)  宗麟の人物像については、1999年に作成した「市報おおいた特集号」において、「進取の人」「開明の人」「英傑の人」というキーワードで結んでいます。


 これに加えて、最近では、海外貿易、海外交流史の立場から、当時多くの戦国大名が戦に奔走するなか、宗麟は、日本国内のみでなく、むしろ、広くアジアに目を向け、貿易による莫大な経済力を背景に力を蓄えていった経済大名であるとの評価もあります。


 こうした宗麟の姿勢は、アジアのみならず、ヨーロッパにも大きな影響を与えていたようであり、当時ヨーロッパで描かれた日本地図には、九州全体が「BVNGO(豊後)」と記されており、これはヨーロッパ人などの目を通して、豊後、あるいは宗麟の力が大きく認識されていたということを示すものと言われています。


  (2)宗麟の築いた国際貿易都市

 宗麟の「進取」の精神により推進された南蛮貿易は、豊後府内の都市まちに空前絶後の繁栄をもたらします。江戸時代の初め頃に作成された宗麟時代の豊後府内の都市の様子を描いた「府内古図」には、大分川河口の西岸に一辺200m四方にも及ぶ大友館を中心に、南北4本、東西5本の道路によって区画された都市が描かれています。


 その中には、「桜町」や「上市町」「唐人町」など、こうした町が40あまり描かれています。また当時の記録では、5,000軒の家が軒を連ねていたとされており、北は現在の長浜町、南は元町の南端の範囲に広がっていました。


 この豊後府内の都市は、西の京都と呼ばれる大内氏の守護城下町山口の風情と、大阪の堺や福岡の博多などといった国際貿易都市の性格を合わせ持つ日本でも有数の特徴ある都市でした。


  (3)南蛮文化発祥の地 おおいた ~地下からのメッセージ~

 こうした繁栄の原動力となった南蛮貿易ですが、豊後府内では、1551年の南蛮船の入航、宗麟とザビエルの会見からはじまります。


 現在、南蛮貿易、南蛮文化というと、長崎というイメージが強いですが、実は長崎の開港は1570年であり、豊後府内は長崎よりも20年近く前からはじめていたことになります。


 平成8年からはじまった「大友氏遺跡」の発掘調査では、府内古図をもとに作られた復元想定図のとおりに大友館跡や大友氏の菩提寺のひとつである万寿寺跡、当時の道路などが発見されています。


西洋医術発祥記念像 発掘ではたくさんの品物が出土していますが、南蛮貿易の史実を裏付けるように、ベネチアンガラスなどのヨーロッパ製品が出土する他、中国、朝鮮やタイ、ベトナム、ミャンマーといった東南アジア産の遺物の量が群を抜いています。なかでも中国南部や東南アジアの遺物は、日本の中世都市遺跡の中で有数の出土量を誇っています。


 こうした豊後府内の中国や東南アジア産の出土遺物の特徴は、商品としての貿易品ばかりでなく、来住していいた外国の人々が日常生活用具として使っていたものが数多く出土する点があげられ、豊後府内に中国や東南アジアの人々が滞在、あるいは居住していたことを具体的に示すものとして大変注目されます。


 また、豊後府内はこうしたアジア文化の窓口であったとともに、キリスト教宣教師による西洋文化伝来の地でもあります。日本にキリスト教が伝わり、豊後府内がヨーロッパ文化の受け皿となり、東西文化の出会いにより南蛮文化が花開きました。


 1553年に現在の顕徳町1丁目にデウス堂とよばれた府内教会が建てられ、1555年にポルトガル リスボンの商人であり、医師でもあったルイス・デ・アルメイダが、当時貧しさのために子どもを捨てたり、嬰児を殺したりする人々の惨状に驚き、宗麟の支持を得て子どもを引き取るための育児院を建設しています。数名の乳母が雇われて子どもたちの世話にあたり、牝牛2頭が用意され、幼児には牛乳が与えられました。


 アルメイダは1557年、他の神父とともに府内病院の建設を行い、我が国で初めて西洋式外科手術を行ったことでも知られています。記録によると、この病院の運営には「ミゼリコルディア」というボランティア組織があたったとされており、この点で大分は日本におけるボランティア活動発祥の地と言われています。

西洋医術発祥記念像 また、1557年には、日本で初めての日本人による聖歌隊が府内教会において組織され、1561年には日本人少年によるビオラの演奏が行われたという記録から、西洋音楽発祥の地とされています。さらに、1560年にはアダムとイブを題材にした西洋劇などが上演されたことから、西洋演劇発祥の地とも言われます。


 少し時代は下がりますが、宗麟が51歳の1581年には、ローマに天正遣欧少年使節を送り出した巡察師バリニャーノとともに、府内にコレジオ(英語でいうところのカレッジ:大学)という高等教育機関を建設します。ここでは語学の他、天文学や哲学、ヨーロッパや日本の古典などの講義が行われました。府内コレジオは薩摩島津軍の府内侵攻により6年間という短命の内に幕を閉じますが、ここで育まれた東西の異文化交流の種は、その後、長崎に引き継がれ実を結びます。こうして府内コレジオで体系的に講義されたヨーロッパの学問や科学思想は後の時代に影響を与えたのかもしれません。


 このように、安土桃山時代から江戸時代初期、従来からの交易によって間断なくもたらされた東アジア文化と日本古来の伝統文化からなるアジア性に、ポルトガルをはじめとするキリスト教宣教師や貿易商などによって新たに移植された西洋文化が融合し、醸成された文化総体が本市の築いてきた「南蛮文化」であり、海外の文化をいち早く取り入れ、見極め、日本における南蛮文化の「はじまり」を作ってきたのが、他ならぬ宗麟であり、ここ豊後府内だったのです。 

 


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