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更新日:2003年4月30日
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「西洋音楽と演劇」布教活動には音楽がつきものである。ミサのとき、オルガンが奏でられ、聖歌が歌われた。やがて聖歌隊(合唱隊)も結成された。すでに弘治三年(1557)三月の聖週のとき、府内教会で二つの合唱隊がオルガンの伴奏で聖歌を歌い、滞在中のポルトガル人の数人が合唱に加わったという。
(中略)
音楽とともに西洋の演劇や美術も府内へ伝えられた。
演劇はクリスマスや復活祭などのとき、教会で上演された。永禄三年(1560)のクリスマスのとき、日本人のキリシタンが数日前から準備して、聖書中のいろいろな物語に日本風の歌を作って、絶えず歌いながら演じたという。アダムとイブがエデンの園から追放される話では、会堂の中央にリンゴの木を置き、これにメッキのリンゴ数個をつけて演じたが、大人も子供もみんなこの話に泣いたという。
物語の筋は人物の演技でだいたい分かるよう演出され、必要なところは人物自らが日本語の歌で語り、その他は合唱によって説明がなされたという。言わばオペラ風の演劇、あるいは日本の謡曲、古浄瑠璃のようなものであっただろうとみられている。
演劇の舞台作りで、西洋画も紹介されただろう。永禄四年(1561)修道士のシルバ「受難の秘儀の絵」を作成し、聖週の木曜日の行列で少年に携えたという。
西洋の食生活なども府内には紹介されたようだ。弘治三年(1557)の復活祭のとき、府内教会では、約四百人のキリシタンを食事に招き、牛一頭を買って、その肉とともに炊いたご飯をふるまったが、みんな大いに満足してこれを食べたという。
(中略)
こうして生活に密着した西洋の文化を広めることによって、キリスト教は主として貧しい庶民の間に広まっていったのである。
(『大分市史・中巻』より)
西洋音楽発祥記念碑(写真左) 西洋演劇発祥記念碑(写真右)